申命記
1.バシャンの王オグの滅亡
2.過去が与える教訓
3.従順
4.まことのささげもの
5.モーセのような預言者
■しんめいき 申命記
聖
書の第5の書で,モーセ五書の最後の書.ユダヤ人の間では〈ヘ〉エーレ・ハッデバーリーム(これは……のことばである),または簡単にデバーリーム(こと
ば)と呼ばれてきた.日本語の名称は漢訳からの転用である.「申」が「申す」を意味することからは上記のユダヤ人の呼称に近い.70人訳は申17:18に
ある「この律法の写し」を意味するヘブル語を「第2の律法」の意味にとり,その意味のギリシヤ語デューテロノミオンをこの書の名とした.英語等の欧米語訳
の名称はこれから出ている.
1.内容.
2.五書の他の部分との関係.
3.申命記の思想.
4.著者問題.
1.内容.申命記は約束の地に入る直前のイスラエルの人々に対して,モーセがモアブの野で語った最後のことばの収録である.性格としては,契約更新の文書
と言える.この契約はシナイでの神とイスラエルの間の合意に基づくものであり,イスラエルに選びの民としての地位を与えたものである.文書化されたとはい
え,本来はモーセが特別の目的をもって「語ったことば」であることがこの書の理解の一つのかぎであると思われる.ここでのモーセのことばは勧告であり訴え
である.確かにその内容には律法に関することが多いし,また歴史の記述という性格も含まれている.しかしそのすべてが勧告ないし訴えという枠の中で与えら
れていることが重要であると思われる.イスラエルの人々は,何よりも彼らを導いておられる神を再確認すべきであった.与えられた律法は文字通り神の恵みに
あずかるための道筋であり,彼ら自身の祝福のための特別の備えであることを,毎日の歩みの中で確認すべきであった.神とイスラエルの間の契約関係こそすべ
ての基底にある事実であることを,彼らははっきり知らなければならない.「天と地とを,証人に立てる」(申30:19)と言われる神への従順は,そのまま
祝福とのろいの分れ道であった.申命記におけるモーセの勧告は究極において,神とイスラエルの契約関係とは何であるかを,緊迫した現実そのものの中でイス
ラエルに理解させようとする性格を持っている.律法はあくまでも契約の律法である.けれどもそれはイスラエルにとって,単に束縛や重荷として受け止められ
るべきものではない.むしろ神との最も近い関係の中に生かされるという特権の保証なのである.旧約における神と人との契約関係について重大なことは,それ
が決して同等な立場での関係ではないという事実である.当然のことながらこれは,交渉による合意に基づく契約ではない.契約を定めるものもそれを与えるも
のも,神なのである.イスラエルにとっての最善を知られる神が,一方的に条件を示される.ここで言う一方的とは,目的が実現する確実性につながる事実であ
る.イスラエルは主権者である神によって与えられた条件を,全面的に受け入れなければならない.申命記のこのような特質はその構造にも現れている.それは
従うもの,従わせるものの関係を前提とした構造と言える.この点で特に興味深いのは,申命記の構造と,最近多くの学者の関心を集めてきた古代東方のいわゆ
る宗主権条約(契約)の構造との類似である.宗主権条約とは戦争などによって属国化された国とその支配国との間の契約であり,両者の従属関係がどのような
ものであったかをよく示している.この種の条約の多くは,基本的に同じ形式を持ち,特定の国々の間だけでなく,広くいろいろな国々の間で共通に用いられて
いた形跡が認められている.M・G・クラインは申命記が全体として,この種の条約文と基本的に共通の形式を持っていることから,申命記が全体として統一さ
れた内容の書であると論じている.P・C・クレイギーは古代東方の宗主権条約の形式の古典的な例を次のように示している.
1.前文(これは……のことばである)
2.歴史的序言(その前提になる歴史,条約の背景と基礎となった出来事)
3.条約の総論的な規定(将来の関係についての実質的な表現)
4.条約の各論的な規定
5.証人(条約の証人として呼ばれた多様な神々)
6.祝福とのろい(契約を守ることと守らないことによる相違)
申命記の構成を上記の形式によって表現すると次のようになる.
1.前文(これはモーセが告げたことばである)1:1‐5
2.歴史的序言 1:6‐4:49
3.契約の総論的な規定 5‐11章
4.契約の各論的な規定 12‐26章
5.祝福とのろい 27‐28章
6.証人 30:19,31:19,32:1‐43
批評学のほとんどの立場では,申命記を統一された書とは認めない.現在の形になるまでに,多くの段階を経て,多くの編集者の手による変更を加えられてきた
とする.たとえば代表的な見解では,申命記の中核は原申命記とも言うべき5‐26章に28章を加えたものであると考える.この原申命記に対し多くの挿入や
付加が繰り返されたと言う.1‐4章を5章以下と別の資料とする理由を,両者に別々に序論がついているからだとする.その他のいわゆる重複部分の存在,動
詞,代名詞の単数,複数の変化等を資料による分割の根拠とするのである.こうした批評学の現実に対して,上記の宗主権条約文との比較による統一性の再確認
の意味は非常に大きいと思われる(シナイ契約全体と宗主権条約の形式との関係についての詳細は,K・A・キッチン『古代オリエントと旧約聖書』119頁以
下を参照).
この書の具体的な内容は,次のように要約される.
1.序言 1:1‐5
2.モーセの第1の説教━━歴史的序論 1:6‐4:43
(1)40年の歴史━━歴史における神(1:6‐3:29)
(2)律法への従順の勧告(4:1‐40)
(3)逃れの町について(4:41‐43)
3.モーセの第2の説教━━律法 4:44‐26:19
(1)序論(4:44‐49)
(2)戒めの基本(5:1‐11:32)
(3)戒めの各論(12:1‐26:15)
(4)結論(26:16‐19)
4.モーセの第3の説教━━祝福とのろい 27:1‐29:1
(1)契約の更新(27:1‐26)
(2)祝福とのろい(28:1‐29:1)
5.モーセの最後の説教 29:2‐30:20
(1)契約への従順の勧め(29:2‐29)
(2)決断への勧め(30:1‐20)
6.契約の継続 31:1‐34:12
(1)律法の宣言とヨシュアの任命(31:1‐29)
(2)モーセの歌(31:30‐32:44)
(3)モーセの死について(32:45‐52)
(4)モーセの祝福(33:1‐29)
(5)モーセの死とヨシュア(34:1‐9)
(6)結語(34:10‐12)
2.五書の他の部分との関係.申命記は五書の他の部分とは全く異質であって,区別されなければならないとする考え方が,学者の間で強い影響力を持ってい
る.申命記の神学も主題も他の書とは明白に違っていると言う.しかし,創世記でアブラハムに与えられた,子孫が祝福され,全世界がそれによって祝福される
という約束はなお続いている.それは今神の民として選ばれたイスラエルに継承されて申命記でも一貫しているのである.むしろそれは申命記の流れの基底と
なっている.また約束の地のことも繰り返し強調されている.創世記で始まっている五書の中心的なテーマが,申命記で一つの結論を迎えていることは明白であ
る.民数記との関係は特に直接的である.申命記は民数記の終りの部分で始まっているモーセの働きについての報告を継続し,完結させている.それはイスラエ
ルの民をカナンでの生活に備えるためのものであった.民数記では行政管理の面での準備が示されているのに対し,申命記では特に霊的な備えが与えられてい
る.他の四書との相違の多くは,申命記の内容であるモーセの勧告の目的と勧告がなされたその背景による.W・G・スクロギーによる以下の対照は,申命記
と,創世記から民数記までの各書の内容の内的な関連をよく示している.
創世記━━民数記 申命記
人の経験についての記述 霊的な意義
外面的な事実 内面的な精神
神の方法の経験 神の愛の啓示
イスラエルの歴史の経過 イスラエルの歴史
の哲学
神のみわざ 神の原則
3.申命記の思想.申命記の中心思想は「独自の神としてのヤハウェが独自の民としてのイスラエルに対して持っておられる独特な関係」(R・K・ハリソン)
である.この書の強調点の一つである「唯一の神」は,申6:4が典型的に表現している.「聞きなさい.イスラエル.主は私たちの神.主はただひとりであ
る」.このみことばは必ずしも数の上で神が唯一であることだけを強調しているわけではない.つまり多くの神に対してのひとりの神,多神教に対しての一神
教,バアルの神々に対して唯一のヤハウェということだけではないのである.神が唯一であるということの根本は,この神がそのみわざにおいて常に首尾一貫し
たお方であるということにある.この神は同じことについて,ある時にはこのことをし,またある時は別のことをするという方ではない.このような神であるな
ら現実には2人の神が存在するのと同じことになる.そのわざにおいて一貫性のない神は多神教の神々と同じことになるのである.神はユダヤ人にとってだけで
はなく,異邦人にとっても神である.それは神が唯一であるゆえである(ロマ3:29‐30).申6:4の宣言は,神には自己矛盾がないこと,そして人への
取扱いにおいて決して矛盾のない方であることを,他の何よりも明確にしようとしているように思われる.御自分に従おうとする者のために,神はどの世代に
あっても同じ真実な愛の神であり,契約の主なのである.それで申6:5においての「心を尽くし……あなたの神,主を愛しなさい」との戒めが6:4に続くの
だとするV・P・ハミルトンの論議は的を射ている(詳細は,Hamilton, V. P., Handbook on thePentateuch,
pp.407
ff.を参照).このような神は,ほかにないゆえにユニーク(独特)なのである.この神こそ「天ともろもろの天の天,地とそこにあるすべてのもの」を所有
される神である(申10:14).この神はすべての国民を治める神(7:19),またねたむ神であり(7:4),霊なる方である(4:12,15).この
神はシナイでの契約を通してイスラエルを特有な神の民とされ,全世界のための祭司の民とされた(出19:6).彼らはこの契約によって,神が族長たちに約
束された祝福を,相続するものとされた(申26:16‐19,27:9,29:1).彼らは神に特別に愛される聖なる民であり(7:6,14:2,
21),苦しめられることでさえ,彼らが神の民として確立されるためのものであった.イスラエルは神を恐れるだけでなく,神を愛する民であり,神に結ばれ
た民であった.
申命記全体を通して注目すべきもう一つの要素は,神とイスラエルの契約の歴史的な性格である.現実の歴史の中で神は契約の当事者となられ,歴史の進展を通
して,その約束を成就される.歴史はここでは「みことばとみわざにおける神の意志の反映」である.「わたしは,あなたをエジプトの国,奴隷の家から連れ出
した,あなたの神,主である」(申5:6)とのみことばは契約の前言となっている.出エジプトは歴史における神のわざであり,それゆえに一般の歴史学を越
えた領域を含む歴史的出来事なのである.この歴史に働く神こそ,契約を全うされる神なのである.神のみわざが単なる思想や期待ではなく,文字通りの事実で
あることを,申命記は二重にも三重にも強調している.過去の出来事と将来起ろうとすることを一貫した神のみわざの現実として意識することができるのは,歴
史の神を信じてこそ可能なことである.
モーセが神の代言者として行動していること,つまりイスラエルの預言者の系列の先頭に立つ存在とされていることも,注目すべきことである.
ではモーセは,現実にはどのようにして神のことばを語ったのであろうか.1:6では「神は……告げて仰せられた」と言われ,1:9では「私は……こう言っ
た」と表現されている.ある時は神の権威のことばをそのまま語り,ある時は自分のことばとして語ったということであろうか.5:22‐31の記事では神の
声を直接聞くことを恐れた民が,モーセが彼らに代って聞き,それを彼らに語ってくれるようにと願っている.これは直接には聞けない人々のために,モーセが
神の代言者として語ったことを意味する.人々はモーセがすでにそのような立場を与えられていることを知っていて頼んだと考えてよいであろう
(Craigie, P.C., The Book of Deuteronomy,
p.38).モーセが預言者として立てられていたことは申命記そのものの理解に重要な意味を持つ.それはモーセのことばの収録としてのこの書が,預言者の
書であり,預言的性格を持つことの理解につながるからである.
4.著者問題.申命記が実質的にモーセによるものであり,モーセの時代からのものであるとする伝統的な見解は,19世紀になるまで広く受け入れられてい
た.しかしすでに18世紀初期W・M・L・デ・ヴェッテは後の批評学に大きな影響を与えるようになる仮説を公にしていた.この説によると,申命記はユダの
王ヨシヤの宗教改革(前7世紀)に共鳴するある人物によって,その改革の後に書かれたことになる.この筆者はモーセの名を用い,モアブの野を架空に場面設
定して,この書を書いた.そして神殿の廃墟にそれを置いた.これが神殿を修復する人たちによって発見され,ヨシヤの計画の推進に大きく用いられたのだと言
う(Ⅱ列22章).これは「敬虔な」動機によって宗教改革の歴史的な前例を与えようとした.しかしその現実はこの書の全体が偽書であるとされる.J・ヴェ
ルハウゼンはこれを用いて彼のイスラエル宗教進化の史観に基づく発展文書説の中核にすえた.彼によれば申命記,特に12‐26章はヨシヤの宗教改革(前
622年)の直前に書かれたと言う.イスラエル宗教は申命記においてその最高の段階に達し,倫理的な一神教として性格づけられる内容を持つに至る.この申
命記,あるいはD資料の年代(前7世紀後半)を基準として,イスラエル宗教のより未発達な段階に属するJ,E両資料(前9世紀,前8世紀),さらに複雑化
した段階を示すP資料(前6世紀)の年代が推定される.そしてこれらによって五書の全体が再構成され,その起源が説明されるというわけである.D資料は申
命記に特有のものであり,創世記以下の四書には見出されないし,逆に申命記の中に他の資料JEPは見出されないとする.つまり申命記はそれ自体前の四書か
ら続いているといった性質の書ではないと言うのである.しかしこの書がモーセより何世紀も後の人による偽書ではあり得ないことは,ありのままに本文を読む
ことによってはっきりすると思われる.セガールはこのことを自明の理として説明している.申命記にはヨシヤ王の時代を示すものはない.また,発展文書資料
説が重視する聖所についての言及も,エルサレムについての言及も,ベテルについての言及もないし,王国の分裂についても,捕囚や第2神殿についても言及さ
れていない.しかし反対に,イスラエルがヨルダンを渡ろうとする状況にあること,カナンに住もうとしていることなどは繰り返し語られているのである.モー
セ以後の人が,自分の時代には全く目を閉じて,自分の位置を遠い過去であるモアブの地に徹底的に合せて考えたなどということは困難であろう.すでに長い間
存在しなくなっているカナン人,アマレク人を滅ぼせと何回も命じなければならないとは,不思議でさえある.もちろん現在デ・ヴェッテの説はもちろんのこ
と,ヴェルハウゼンの考え方にしても,そのまま受け入れている者はいないであろう.しかし申命記を前7世紀のものとする立場はほとんどの批評学者が受け入
れているようである.ただ申命記成立の過程については多様な見解が出されており,その中にG・フォン・ラート,E・W・ニコルソンの北起源説,ウェイン
フェルトの南起源説などが含まれる.ウェインフェルトはその説の根拠として,申命記の構成が前7世紀のアッシリヤ国家の条約文の表現形式に影響されている
ことをあげている.その結論は別として,古代東方のいわゆる宗主権条約(本項目1.「内容」の項を参照)の形式との対比における研究は申命記研究の,それ
までとは異なった方向を示すものとして注目される.M・G・クライン,K・A・キッチンは,同様な対比を通して,申命記の形式は前2千年期後半の宗主権条
約文の形式に合致していることを明らかにしている.P・C・クレイギーはこうした対比が非常に有効なものではあっても決定的な意味を持ち得ないことを認め
ながらも,イスラエル宗教の歴史全体の理解からクライン,キッチンの立場が確認されると考えている.彼によれば,ヘブルの契約になぜ属国との宗主権条約の
形式が表現されるようになったかについて歴史的背景が重要なのである.契約はイスラエルを神に結びつけるだけでなく,エジプトというこの世の権力への従属
からの解放を明らかにするものでもあった.この関連でこそ条約の型を用いる意味が出てくる.この世の従属関係を象徴する形式が,イスラエルと神との関係に
移され,当てはめられているのである.イスラエルは,エジプトやヒッタイトではなく,ただ神にのみ忠誠を尽すべきものとされたのである.クレイギーは申命
記のこの形式と,形式の持つ宗教的意義とから判断して,この書がモーセの時代か,モーセ後間もない時代のものと判断するのが正当であるとしている.エジプ
トにおいてこうした形式が宗主権国家と属国との間だけでなく,エジプトの内部での外国人労働者グループとの関係の規定に用いられた形跡があると言う.この
こともまた,条約形式の多様な用いられ方を許容する例として注目される.
こうした状況を背景にして考える時,申命記そのものの示す内的証拠はきわめて重い意味を持つものと言わなければならない.申命記には,モーセの名が40回
近く出てくる.そのほとんどがそこで語られていることの,権威ある発言者としての名である.そして一人称が頻繁に用いられている(1:16,3:21,
29:5等).この書でモーセは,カナン占領の準備として神の定めとさばきを教えている(4:5,14,5:31,6:1等).31:1‐34:12の記
事からは,モーセが律法を集成していることが分る.「書」を意味するヘブル語は口伝を示す用例がないことから,これが口伝ではなく文書であったと判断でき
る.31:22の記述からは,モーセの歌(32:1以下)は唱えられる前に書かれていたと考えられる.モーセの死の記事を含む申命記全体が,最終的にいつ
完成したかはもちろん明確には知り得ない.しかしそのほとんどがモーセまたはモーセの時代のものであることを否定する十分な理由はない.